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私にとってアートとは。鉄を扱う理由。

売れるとか売れないとか、

評価されるとかされないとか、

そういう軸そのものが邪道というか、私にとってアートとは、極めて神聖な領域に位置するものだ。

アートは、私にとって生きていくために必須なものだった。

生きるか死ぬか、ぐらぐらとどっちつかずで不安定だった私にとって、絵の世界は唯一生きている心地を忘れ、何もかも忘れて没頭できる逃げ場であり支えであり、そんな私から生み出てきた作品は、自分の片手であり片足であり、それらで重心を保って生きてきた。それを切断してお金と交換して売れるような、売って喜びに変わるような、そんな軽いものではない。


2016年に、フクロウの絵を東京とニューヨークで展示した。人にはあまり評価されず、結果は売れずに戻ってきたが、非常にホっとした。

その後、今は、注文を受けたり、売れて手放すことになっても喜びに感じられる絵を描いている。手放す時、断腸の思いはない。最初から人のために描いているからだ。

この2年、日本のアートマーケット内を少しうろうろ自分の足で歩いてみたが、ずーっと違和感を感じてきた。自分と周りのアートの定義、そもそもの前提が大分異なっていることが分かってきた。

市場は、美術史に沿っていて、新しく技術を更新し、歴史を塗り変えるような作品を求めている。周りの多くの作家も、そういう作品を生み出し、フィーチャーされ、有名になって、絵が高値で流通する・・・そういうのを目指して、ギャラリストとのビジネスが成立する。

そういったアートこそがアートなのだと思う。自分もそこを目指すべきだと思っている。がしかし、フクロウの絵こそ、これこそがアートの極意だと私は思う。アートは私という一人の命を救ってきたのだから。

歴史を塗り替えることや流通を目的として絵に臨んで来なかった私のアートは、アートとは呼ばず、「お絵かき」や「趣味」と呼ぶのが相応しいのかもしれない。でも、「趣味」というと、道楽や片手間、という軽いイメージが付きまとう。私はそんなに軽く接してきたわけではなく、軽いどころか重く真剣に接してきたので、やはり「アート」と呼んで良いだろうと思っている。

今、分かった。

だから私は重い鉄が好きなのだ。

自分の作品は重くあって欲しいのだ。

重力と共に地球とピタっと密着して浮遊感のない重い鉄。

40代にもなった今でこそ、生きていることは喜びでしかないけれど、枯葉のようにひらひらと、自然の流れにと共に何処かへ舞ってくしゃっと踏みつぶされてしまいそうだった私が惹かれるのは、重い鉄なのだ。

神聖なる領域で、人に売りたくない/売れない絵が描けたというのは、今や自分の誇りだ。

こういうアートとの付き合いをしてきた私は、アートマーケットとは少し距離を置き、私ならではのするべきことが他にある気がしてならないのだ。

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